いいホテルや旅館に泊まり、おいしいものを食べ、
    ガイドブックに載っている観光名所を見てまわる。
    そんな家族旅行にたくさん連れて行ってもらったし旅行というほどでもなく
    どこかの埠頭や船のある公園、誰もいないスタジアム、
    トンビが飛んでいる浜辺などに連れていかれた時もある。
    思いだそうとしても、そこで何をしたのかなんてのは、
    グチャグチャと混ざり合って1つの大きな記憶違いの塊となっている。
    その記憶の中は、痛みを一時的に忘れるためにどこかから逃げてきたようで、
    どこか曇っていて、感じられるものがあまりない。
    それでも、浅瀬に大きなカニがいて騒いだこと、
    シャンデリア風なガラスのお土産が欠けたこと、
    いつだって花火は遠くて最後まで見ることはなかったこと、
    突然不機嫌になる母や姉に、なすすべもなく床のマス目に合わせて歩いたこと、
    自転車で先を走る父は曲がる方へ手を水平に上げていたことなど、
    夢だったのかもしれない些細な瞬間ばかりをよく憶えている。
    今でもそれらの記憶が私をどこかへ連れていこうと手招きしてくる。
    正しいとも感じてはいないけれど、無視したところで
    変に思いが強くなってしまいそうな面倒な(それはやっぱり家族の)ことだから、
    私は、自転車で先を走る父が水平に手を上げて曲がる方向を示していた
    あの頃と同じようにただついていく。
    信号をたどっていけば、昔からよく知っている
    “大きな指に抓まれているあの感覚”へと、ちゃんと還れる。
    そんな気がしはじめている。






    2016

















   

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